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2007年6月 7日 (木)

知的生産の技術

1~2か月前、何かの雑誌で、梅棹忠夫さんのインタビューを読みました。相変わらず切れ味の鋭いコメントで、インタビュアーもたじたじだったと記憶しています。
この記事の編集後記的なコラムで「知的生産の技術を再読し感動した」といったことが書かれていたことから、私も約30年ぶりに読み直してみました。

知的生産の技術 梅棹忠夫著(岩波新書)

初めて読んだのは確か高校の2年か3年の時。秀才の友人から「読んだ?」と聞かれ、読んでもいないのに、つい「読んだ。ためになったね~」などと相づちを打ってしまい、その日のうちにアリバイ工作的に読んだのでありました。読んだ動機はともかく、当時私なりに感動し、確か読書カードを作ったはずです。が、あえなく三日坊主。自分が知的生産にはあまり向いていないことを、早くも十代で悟ったのであります(涙)。

この本を改めて読み直し、その考え方の先見性に改めて驚くと共に、当時の自分は何一つ読み取っていなかったことを痛感しました。これは情報化社会の現代こそ必読の書です。
ひとくちに「情報化社会」と言われ、私自身も「情報産業」と言われる業界に身を置きながら、この本を読み直すまで情報化社会とは、「情報機器が発達した社会」という意味でしかとらえておりませんでした。しかし、情報を個人でも利活用できる社会という意味なのだと、この本を読んで痛感しています。
あまりに有名な本なので、記すまでもありませんが、この本の目次を引用します。

はじめに
発見の手帳
ノートからカードへ
カードとその使い方
切り抜きと規格化
整理と事務
読書
ペンからタープライターへ
手紙
日記と記録
原稿
文章
おわりに

この本で提案されている、情報活用の方法のほとんどが、いまやパソコンで実現できています。しかし技術的にできることと、内容的にできていると言うことは異なります。少なくとも私はまだ情報活用をパソコンで行っているとは言えません。やっているのは情報処理だけです。大いに反省させられました。

また、情報社会の国語教育について、問題の核心を突いた提言をしています。

文章アレルギーが出てくるのは、ひとつには文章を文学とかんがえるからではないか。(中略)文章の教育は、ほとんど文学作品を通じておこなわれているようである。国語の授業は、しばしば国文学の授業と混同されている。

確かに私たちが受けてきた国語教育は、「気持ちが伝わるように書きましょう」だの「主人公の気持ちを表すのに著者がこのような表現を使っているのはなぜでしょう」といったものでした。実を言えば、私自身も、10年ほど前までその片棒を担いできたわけですが、何も小説家を育てているわけではないのだから、もっと情報活用的な部分、つまり情報を的確につかみ取り、過不足なく伝える力の育成に力を入れた方が良かったのではないかと痛感します。

長くなりました。最後に重要な一節を一つ。
1967年に刊行されたこの本が、現在の情報教育関係者にとって、重要な提言をしています。あとがきの最後の数行に記載されていますので、それを引用しておきます。

文章の教育は、情報工学の観点からおこなうべきだろうといったが、(中略)どういう科目で行われるのであろうか。国語科の範囲ではあるまい。社会科でもなく、もちろん家庭科でもない。わたしは、やがては「情報科」というような科目をつくって、総合的・集中的な教育をほどこすようになるのではないかとかんがえている。

現在高校で実施されている「情報科」。名称は同じですが、果たして梅棹さんが提案されている情報科と同じものでしょうか。巷間よく言われる「国語科で情報教育」というのも、間違いやすい、危険な道ではないかと私は感じています。

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