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2008年1月24日 (木)

ケータイを持ったサル

「ケータイを持ったサル」正高信男著(中公新書)

最初に本書を見かけたときは、1~2年前によく出版された現代若者批判本の一つと思っていました。そうした本は、、統計の取り方や分析に疑問があるもの、根拠薄弱なものなど、説得力に欠け、情緒的・感覚的な本が多かったです。
それゆえこの本も出版当時は敬遠していたのですが、読んでみるとまったく違いました。京都大学霊長類研究所教授である著者が、サルの行動分析の視点からケータイに象徴される現代の人間社会を見ると、「ヒトはサル化している」というのです。

ヒトとサルのDNAが類似してきている、ということではありません。本書のサブタイトルに「人間らしさの崩壊」とあるように、著者はこのように説明しています。

現代日本人は年を追って、人間らしさを捨ててサル化しつつある。(中略)人間というのは、放っておいても「人間らしく」発達を遂げるのではなく、生来の資質に加えて、社会的文化的になかば涙ぐましい努力を経て「人間らしく」なっていく、サルの一種なのである。いや、「そうであった」と書くべきかもしれない。というのも、今や社会の中に、「人間らしく」なっていくようにし向ける要因が消滅しようとしているからである。

サルの専門家から見たとき、サルとヒトを区別するポイントは社会性や、文化的行動だそうですが、それらは生得的なものではなく、教育(しつけ)によって身につけるものだといいます。学ぶことで、ヒトは、人間になるのだそうです。この学習機能(機会)が失われることによって、人間が、ヒトというサルの一種になっている、というのが本書の主張です。

これまで「ケータイが手放せない」「電車の中で化粧をする」「平気で地べたに座る」といった近頃の若者の現象について、本やマスコミで様々な論評がありましたが、どれも私にはしっくり来ませんでした。しかし、この本の説明は非常に納得できました。彼らは社会Photo 性が不足している のではなく、左の図のように、社会という認識そのものがないのだというのです。地下鉄の構内も、コンビニの前も、「うち」の中なのですから、平気であぐらをかけるわけです。現在引きこもりも問題視されていますが、実は意識としては、あぐらをかく人たちと「うち」認識が多少違うだけで、社会のとらえ方はまったく同一だといいます。これを読んで、空恐ろしくなりながらも、納得せざるを得ませんでした。

本書では、こうした社会認識を欠落させた人たちを拡大再生産する社会になってしまった原因について、家庭教育の変化、家族のあり方の変化、コミュニケーションの変化を中心に論述しています。とりわけ、サルのコミュニケーションとケータイによるコミュニケーションに、数多くの共通点があるという主張は注目に値します。

久々に衝撃を受けた一冊でした。

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