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2008年7月 3日 (木)

生物と無生物のあいだ

「生物と無生物のあいだ」福岡伸一著(講談社現代新書)

たいへんよく売れた本のことをベストセラーといいます。一般によく売れた本ほど、より書店で目立つように置かれますから、「よく売れている本だ」ということを根拠に本を買う人が多いのでしょう。私は、ちょっとひねくれていますから、よく売れている本はすぐには飛びつかず、1年ほど経って、まだ売れていたら買うことにしています。

本書もベストセラーですが、私が購入したのは、発行後ちょうど1年経った先月。しかし今回ばかりは、すぐに読まなかった私の不明を恥じました。

本書は、286ページもある割に図版も少なく、最近の新書では珍しい非常に文字量の多い本です。しかも内容を理解するには、高校の理科で生物を履修したくらいの知識を要求します。にも関わらず、本書を読み終えるのに2日とかかりませんでした。決して易しく読みやすかったわけではありません、面白くて読むのが止められなかったのです。

本書の魅力は、主に二つあると思います。

  1. 文章が巧みで読者を引きつけること。特に比喩や例示、情景描写は抜群にうまい。
  2. 生物界の「紀伝体」ともいうべき表現。分子生物学誕生の歴史と今が人物中心に語られていること。

まず1について。たとえば、「生命とは動的平衡にある流れである」という、本書のテーマの核心に迫る、第9章の導入部分は、こんな具合です。

遠浅の海辺。砂浜が緩やかな弓形に広がる。海を渡ってくる風が強い。(中略)ちょうど波がよせてはかえすぎりぎりの位置に、砂で作られた、精密な構造を持つその城はある。ときに波は、深く掌を伸ばして城壁の足元に達し、石組みをもした砂粒を奪い去る。吹き付ける海風は、城の望楼の表面の乾いた砂を、薄く、しかし絶え間なく削り取っていく。ところが奇妙なことに、時間が経過しても城は姿を変えてはいない。同じ形を保ったままじっとそこにある。いや、正確に言えば、姿を変えていないように見えるだけなのだ。

本書の説明で非常に重要となる「動的平衡(Dynamic Equilibrium)」という考え方について、説明した一節です。生命を、海辺にある砂上の楼閣をにたとえているわけですが、この例示のおかげで、読者の頭の中に、動的平衡の説明を受ける心構え、つまりイメージができます。そして、生命が分子の入れ替えを絶えず行っている説明に続き、それを実感させるため、次のようなたとえを示しています。

よく私たちはしばしば知人との久闊を叙するとき、「お変わりありませんね」などと挨拶を交わすが、半年、あるいは一年ほど会わずにいれば、分子のレベルでは我々はすっかり入れ替わっていて、お変わりありまくりなのである。かつてあなたの一部であった原子や分子はもうあなたの内部には存在しない。(中略)私たち生命体は、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」でしかない。しかも、それは高速で入れ替わっている。

「1年ぶりに会った人は、分子レベルではすでに別な人」とは、なんともぎょっとする説明ですが、このようなすぐれた比喩と説明順のおかげで、この難しい話もすっと受け入れることができるのです。本書には、このように優れた比喩と説明が随所に見られます。

つぎに2について。本書のプロローグには、「生命とは何か」という疑問を持つに至った経緯が書かれています。それがかなり印象的なので、読者としては、早く確信が知りたいのですが、本書の約半分は、生命科学の歴史や学者の置かれている状況や立場などに費やされています。かつて福岡さんが勤務していたロックフェラー大学における野口英世の評価だとか、DNAの二重らせん構造を発見した(と我々が生物で習った)ワトソンとクリックの本当の業績だとか…
気の短い私は、「生命とは何か」が早く知りたくて、この部分を読み飛ばそうかと思いました。しかし、読み終えてみると、こうしたエピソードも生命の営みを理解するのに非常に重要であったと実感できます。分子生物学の考え方が、数学のように、前提となる知識を理解していないと理解できない、ということもありますが、なにより、そうした先達たちの人間くさい営みこそが、生命を考える上で重要なことであると福岡さんは言いたかったのではないでしょうか。

本書が、科学系の書籍でありながら、同じ講談社の「ブルーバックス」ではなく現代新書にラインナップされた理由は、まさにこのあたりにあるのでしょう。読後の満足度が非常に高い一冊でした。

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