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2008年10月16日 (木)

電車の運転

「電車の運転 運転士が語る鉄道のしくみ」宇田謙吉著(中公新書)

私は通勤に電車を使っていますが、これまで電車は、私にとってロボットのようなイメージでした。人間が運転してくれているのだ、という感覚がなかったのです。だから、数分の遅れにもいらいらしましたし、ガクンと衝撃を受けるようなブレーキには怒りさえ覚えていました。

けれども、本書を読んで考えが変わりました。電車は、運転士や鉄道会社の大変な努力によって運行されているのだということが、理解できたからです。圧倒的な迫力の文章と実直さ一本槍の鉄道写真にも惹かれました。

タイトルの通り、本書は電車の運転とそれに関わる鉄道機器やインフラについて解説しています。しかもかなり本格的で詳細な解説です。著者の宇田さんは元運転士だから、そりゃあそれくらい書けて当たり前、と思う方もいるかも知れません。しかし仮に今、「あなたの仕事を一冊の本にしますから、できるだけ詳しく書いてください」と言われて、きちんと書ける人が世の中に何人いるでしょうか。少なくとも私は無理です。
宇田さんは、本書を書くにあたっていろいろ調べたとは思いますが、現役の時からこつこつ勉強を重ねてこられたのでしょう。だからこそ「旧来は○○だったが現在は△△となっている」という説明や、場合によっては「現在は▽▽だが、□□とすべきである」といった主張ができるのです。こういう考えは一朝一夕には身に付きません。忙しい業務の傍ら、勉強を重ねるのは、もちろん本を書くためではなく、よりよい電車運行のためでしょう。だから本書は、章立ても解説文も実直そのものです。

  • 第1章 鉄道の特徴
  • 第2章 発車と加速
  • 第3章 走る──駅から駅まで
  • 第4章 止まる
  • 第5章 線路と架線
  • 第6章 安全のこと
  • 第7章 より速く
  • 第8章 運転士の思い

最も多くのページを割いているのは、第4章「止まる」です。まず電車を止めるときの運転士の心理について解説し、その後、ブレーキ機構の詳細な解説へと続きます。読んでみるまで、ブレーキがここまで奥深いものとは思いませんでした。しかもまだ課題がずいぶんあるようです。
他にも、本書の解説部分は、本当に興味深い話題で満載でした。あるときは電気工学の、あるときは物理学の知識をある程度持ち合わせていないと理解できない説明もありますが、それも本書の魅力の一つでしょう。本当によく調べたものだと思います。私が本書で知り得た鉄道に関する知識は、本当に相当のものです。難しい話題も多いのに、かなり理解できたのは、宇田さんの筆のなせる技でしょう。簡潔でありながら、不足のない、よい文章です。

けれども、本書の本当の魅力は、そうした知識部分よりも、行間からにじみ出る、電車運行への愛着と矜持、現役運転士への愛情でしょう。それがもっともよく現れているのが、第8章です。運転士の勤務表の例が記載され、ほとんどが早朝または深夜に及ぶ乗務なのだそうです。これが連続すると体力的にはきついことでしょう。さらに食事もトイレもままならないと聞くと、なんだか申し訳ない気持ちさえしてきます。
このように、あまり語られることのない、運転士の実態に続き、8章は、「定時運転への努力」と題した項目で結ばれています。

列車が遅れる原因はほとんど乗降時間の増加である。(中略)自分の運転による遅れも発生する。(中略)これを回復しようとすればさらに無理を重ねることになる。(中略)どこまでが自信に基づく無理で、どこからが無謀な運転か、個々の状況で判断するほかはない。遅れの回復を自己の能力に応じて行うのは当然だが、叱責を恐れて無理な回復をすることは厳に戒めるべきことである。
運転士の姿は背後から見えるだけであるが、彼ら彼女らが時計の秒針をどのような気持ちで見ているか、推測していただければ幸いである。

宇田さんは、現役時代はJR西日本の運転士でした。この文章が何を意味するのかは、誰もが分かることでしょう。実際、ここだけでなく、そこかしこに、「あの事故」につながる記述がありました。しかし直接的な表現は一切ありません。私もそれが妥当なように思いました。この本を書くことは、宇田さんなりの鎮魂の意味があったのではないでしょうか。

久々に、昔ながらの硬派な新書を読んだ印象です。ありがとうございました。

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