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2010年1月 8日 (金)

日本語が亡びるとき

「日本語が亡びるとき──英語の世紀の中で」水村美苗:著(筑摩書房)

本書に興味を持ったのは、以前ご紹介した日経サイエンスの対談記事です。対談のタイトルは「亡びるか?日本語で考える科学」。非常に興味深く、また怖い話でもあったので、本書は雑誌を読んですぐに購入したのですが、読めずに年末を迎えてしまいました。きっちり腰を据えて読もうと思っていたからです。

結果的に、その判断は正解でした。時間を掛けて一気に読んだことで、本書の内容をよりよく理解できた(たぶん)からです。年初にご紹介するにふさわしい書籍であると言えます。

本書はとても不思議な本だと思いました。内容的には「教養書評論」カテゴリーで間違いないはずですが、書き出しは、まるで小説かエッセイのようです。
第1章で描かれているのは、水村さんが、IWP(International Writing Program)というイベントに招かれ、各国の文筆家と出会い、交流した様子。第2章では、水村さんがフランスにて行った、日本の近代文学についてのスピーチと、自作小説の話題を下敷きに、英語とそれ以外の言語の「非対称性」について述べられています。
それぞれ興味深いエピソードでしたから楽しく読めたものの、「日本語が亡びる」という衝撃的なタイトルとの関連がわからず、読んでいる時は少々まどろっこしい思いがしました。けれども実は、この部分が本書を読むための基礎、つまり「人間の生活や文化に、言語がいかに関わっているか」ということを理解する上で非常に重要だったのです。結構理屈っぽい部分だけに、論理よりも体験で説明された方が、確かによく理解できます。

その上で本書の核心部分の一つである、第4章「日本語という<国語>の誕生」と第5章「日本近代文学の奇跡」を読むと、日本語という言語が、いかに奇跡的な偶然によって文化的価値を持ち得たかが分かります。ここからの部分を読む時に注意したいのは、水村さんの定義する言葉です。章のタイトルに<国語>という表記が見られるように、水村さんが本書で特別に定義した言葉には、すべて< >の括弧が使われています。これらの言葉は、本書を理解する上でどれも非常に重要です。こうした言葉は、<国語>の他に、<外の言葉><話し言葉><書き言葉><普通語><普遍語><現地語>など、たくさんあります。これらはそれぞれ丁寧に定義されていますのでわかりにくいと言うことはありませんが、本書を通読するのに時間を空けてしまうとちょっとやっかいかもしれません。
この部分でもっとも印象的だったのは、日本が非西洋圏で唯一、自国語による近代文学と学問機関(大学)を持ち得たにもかかわらず、いや持ち得たが故に亡びの道を歩み始めたという指摘です。これは第6章の「インターネット時代の英語と<国語>」で語られている「世界は既に英語の世紀に入った」という指摘を理解する下敷きとして重要です。

このように書いてくると、水村さんが「世界で英語が主流になったから日本語が亡びる」と述べているように誤解される方がいらっしゃるかもしれません。けれども当然ながらそれは違います。私は水村さんの主張を次のように理解しました。

<日本語>は、日本人の無自覚と政府の文化的無策により、今まさに亡びようとしている

ここで言う日本語とは、話し言葉や日常流通する言葉という意味ではありません。文学作品を創ったり、研究成果を発表したりする書き言葉のことです。「英語の世紀」などという以前に、この部分が衰えてきているではないかと指摘しています。そしてその上で、英語教育と国語教育の進むべき道を、次のようにはっきりと述べています。

日本の学校教育の中の必修科目としての英語は、「ここまで」という線をはっきり打ち立てる。それは、より根源的には、すべての日本人がバイリンガルになる必要などさらさらないという前提──すなわち、日本人は何よりもまず日本語ができるようになるべきであるという前提を、はっきりと打ち立てるということである。学校教育という場においてそうすることによってのみしか、(中略)「もっと英語を」という大合唱に抗うことはできない。(中略)
日本人を日本人たらしめるのは、日本の国家でもなく、日本人の血でもなく、日本語なのである。(中略)<国語>こそ可能な限り格差を無くすべきなのである。

アメリカ田舎町の風景を、ゆるやかに描いて書き出された本書は、最終の第7章において、このように血を吹き出さんばかりの激しい言葉で綴られるようになります。私はその強さに圧倒されながら、教科書の駆け出し編集者として、あるべき国語教科書について思い悩んでいた日々を思い出していました。「不易と流行」──当時編集部で頻繁に交わされた言葉ですが、今考えてみると、不易を知ったような気になり、流行ばかりを追っていたような気がします。
最後に、7章の最後に水村さんがお書きになっている言葉をご紹介します。

教育とは家庭環境が与えないものを与えることである。
教育とは、さらには、市場が与えないものを与えることである。

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