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2010年6月23日 (水)

泣き虫ハァちゃん

「泣き虫ハァちゃん」河合隼雄:著/岡田知子:絵(新潮文庫)

河合さんは、日本を代表する心理学者である一方、児童文学の評論家としても一流の方でした。私自身、河合さんが児童文学に深く関わるようになるきっかけ付近に居合わせたこともあり、その著作には特に注目していました。

本書が単行本で出版されたとき、てっきり河合さんが自伝的エッセイをお書きになったのかと思いました。ハァちゃんが河合さん自身であることは容易に想像できたからです。しかしそれは誤解でした。帯には「自伝的小説」と書いてあります。

ほんまに悲しいときは、男の子も、泣いてええんよ―。城山家の、男ばかり六人兄弟の五番目のハァちゃん。感受性が豊かなあまり、幼稚園の先生が辞めると聞いては泣き、童謡に出てくるどんぐりの行方を案じては泣いてしまう。家族に見守られ、友人たちと野山を駆け巡って、力強く成長してゆく過程を瑞々しく描く。心理学者・河合隼雄の遺作となった、せつなく温かな自伝的小説。

本書には全部で12のお話しが収録されており、描かれているのはハァちゃんの幼稚園時代から小学校まで。ハァちゃんは、毎回のように泣いています。ある話などは、ハァちゃんが泣かなかったことがトピックになっていたくらいです。
けれども、言い方を変えればそれは感受性が豊かであるということ。両親、兄弟、先生、友だち、隣の洋館に住むドイツ人…、いろんな人とふれあう中でハァちゃんは、鋭い観察力を発揮しその人たちを見つめます。その関わりがハァちゃんを成長させている姿がよく描かれていました。やがてその観察眼は、ハァちゃん自身に向かいます。「自分とは誰か」──ハァちゃんをつかんで離さないその疑問について、その芽生えから折り合いの付け方まで、丁寧に描かれていました。このあたりは、さすがに専門家です。

河合さんは本書の連載途中でお亡くなりになってしまったのだそうです。ハァちゃんのその後、とりわけ自我との葛藤、恋愛などについてはできれば読みたかったと思います。けれども本書は、決して中途半端に終わっているわけではありません。内容的には、幼年期から思春期の入口までが描かれることで完結していますし、本の構成的には、豪華執筆陣による「あとがき群」の存在があるからです。

「あとがき群」は、まず谷川俊太郎さんの追悼詩「来てくれる 河合隼雄さんに」で始まっています。追悼する詩というと、我々素人は「悲しい」「あの世から見ていてね」といった凡庸な言葉を選びがちですが、谷川さんは違います。河合さんは、私たちの心の中に生きていて、つらいときや苦しいときに「来てくれる」のだと言うのです。河合さんの業績の永遠性を示しながら、それを読む私たちを勇気づけてくれる、とてもすばらしい詩でした。
次に、奥様である河合喜代子さんがあとがきをお書きになっています。

この「泣き虫ハァちゃん」は、夫が遺した最後の本になりました。(中略)夫はこれまで思い出というものを書かない人でしたのに、なぜこの本を書いたのでしょう。なにか、はかり知れない運命を感じていたのでしょうか。この「泣き虫ハァちゃん」が夫の置き土産だったのかと思っています。

このあと病院で過ごした最後の時間の話が続き、関係者への謝辞で結ばれています。見開き2ページの短い文章ですが、夫婦の絆が垣間見える魅力的な文章でした。
その次に「苦しみに寄り添う、ハァちゃんの涙」と題して、作家の小川洋子さんが文章を寄せています。結びの2文だけご紹介します。

お仏壇の前で、お母さんと一緒に泣いているハァちゃんに向かい、私はそっと耳打ちしたい気持ちになった。あなたは生涯、そうやって人の苦しみに寄り添う使命を背負い、それを全うすることになるんですよ、と。

新潮社の広報誌「波」に掲載された文章だそうです。本書の解説といっても差し支えないでしょう。この部分を読んだとき不覚にも涙があふれてしまいました。本書の内容と河合さんの仕事を合わせて評した、見事な表現だったからです。
「あとがき群」の最後を飾るのは、霊長類研究の世界的権威にして児童文学作家でもある河合雅雄さんの文章。しかしここでは、本書に登場する「マト兄ちゃん」のモデルとして、つまり河合さんの兄として非常にカジュアルな文章で、河合さんの子ども時代を紹介してくれています。

それからもう一つ。本書の魅力を高めているのは、岡田さんのイラストです。表紙や挿絵にちりばめられた水彩画は、安野光雅さんの作品を彷彿とさせる、やわらかであたたかな作品です。文章にもとてもマッチしていました。このイラスト抜きに本書は成立しなかったことでしょう。

お話しの中身も、巻末の文章群も、イラストも全部楽しめる、清涼剤のような本でした。多方面で活躍され、人々の心に向き合った河合さんの遺作としてふさわしい本と言えるのではないでしょうか。

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