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2010年7月 5日 (月)

落語論

「落語論」堀井憲一郎:著(講談社現代新書)

堀井さんの書籍としては、以前「落語の国からのぞいてみれば」をご紹介しました。落語を入口に、江戸文化を紹介した本です。本文中に登場する落語や、執筆の参考にした文献を解説した巻末部分がとても充実しているのが特徴的でした。文章は口語的で、ユーモアもたくさんちりばめられています。ですから、週刊文春の人気コラム「ホリイのずんずん調査」と同じ感覚で読むことができました。

ところが今回の「落語論」は、少々様子が違います。文章が口語的であることやユーモアがちりばめられている点は同じなのにもかかわらず、なんだか怒っているような感じの文章なのです。

本書を一読し、この記事を書くためにもう一度読み直してみてその原因が分かりました。本書の主張のほぼすべてが、落語に関する断定的な書きぶりとなっているのです。それは各章各項目の書き出し部分で顕著で、約半数が「~である」「~ではない」となっています。しかも、断定している内容は、皆が落語に対して抱いているであろうイメージを覆すような場合が少なくありません。主な文を抜き出してみます。

  • 落語はライブの中にしか存在しない
  • 落語にストーリーはない
  • サゲに意味はない
  • 落語はペテンである
  • 京都・大坂・江戸の三都それぞれに落語の始祖がいる
  • 落語は客との共同作業でしか成立しない
  • 落語は、繰り返し聞くものである
  • 落語は歌である
  • 複数の人物を声で演じ分けない
  • 途中の拍手は、落語の進行を遮る暴力である
  • 落語の根本は技術にはない

抜き出し始めると止まらなくなってしまうのでここらで終わりにしますwink。私もそれなりに落語好きを自任しておりましたが、衝撃的な説明ばかりでした。「ストーリーはない」「ペテンである」「落語の根本は技術にはない」といった主張は、この一文だけ読んだのではまったく同意できるものではありません。けれども、その証拠として提示されている事実や内容は、どれも納得せざるを得ないものばかりでした。

それからまったく新たな視点を獲得できたのが、「客との共同作業でしか成立しない」という説明です。寄席に集ったお客さんの様子を見ながら演目を決めたり、台詞や設定を変えたりする落語家もいるとのこと。こうした考え方の基本が理解できると、「ライブの中にしか存在しない」とか「途中の拍手は暴力」といった説明も腑に落ちます。

それから落語に限らず、演劇の台詞や音読や朗読のときにもよく使われる「間」や「テンポ」についても鋭い主張が展開されていました。よく、国語の教科書などには「十分間を取って読みましょう」などと書いてあります。私も本書を読むまでは、「間」や「テンポ」には普遍的な技術があるものと思い込んでいました。けれども堀井さんは、「演者の『気』と観客の『空気』が決めるもの」だと言うのです。なるほどなと思うと同時に、学校で子どもの朗読が、なぜ平板になったり過剰に抑揚が付いたりするのかが分かりました。せっかく声に出すのに、聴衆を意識していないからです。「だれに聞かせたいのか」「なにを聞いて欲しいのか」そこを明確にしない朗読が成立しないのは当たり前だと思いました。

近頃は、目の前の出来事をちょろちょろっとなぞって、それに感想を付けただけの新書が珍しくありません。そうした本は、決まって「~なのではないか」「~だろう」という表現が中心となります。それだけに「~である」「~でない」が中心の本書の表現が、必要以上に強く感じられ「怒っている」と感じてしまいました。
けれども一つの主張をなすとき、これくらいの気概は欲しいものです。「~ではないか」と「~である」の間には、単に表現上の差異ではなく表現する意識の差、もっと言えば表現の前の準備・調査の差があるように思えてなりません。本書の約1年前に刊行された「落語の国からのぞいてみれば」の解説が充実していたのは、本書の準備だったと考えることもできます。
もし本書に興味をお持ちになったとしたら、2冊同時に読まれることをお勧めします。

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