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2010年10月 1日 (金)

青い鳥

「青い鳥」重松清:著(新潮文庫)

本書は、8つの物語で構成された短編集。各話とも舞台は中学校、それも別々の中学校です。それぞれ、悩みや問題を抱える中学生が登場し、彼(彼女)の視点で描かれています。物語のタイトルと登場する中学生(最後の物語だけ元中学生)は、こんな具合です。

  • ハンカチ(場面緘黙に苦しむ女の子)
  • ひむりーる独唱(教室で教師を刺した過去を持つ男の子)
  • おまもり(部活と友人関係に悩む女の子)
  • 青い鳥(いじめに荷担した過去を持つ男の子)
  • 静かな楽隊(教室でボス的な友だちとの関係に悩む女の子)
  • 拝啓ねずみ大王さま(父の自殺に傷つき学校に居場所のない男の子)
  • 進路は北へ(私立女子校の息苦しさに反発する女の子)
  • カッコウの卵(中学時代に立ち直りのきっかけを得た元不良)

一見バラバラに見えるこれらのお話しには、実は共通した「ヒーロー」が登場します。

それは村内先生。別々の中学校なのに、どうして同じ先生が登場するの? と疑問に思われることでしょう。実は村内先生は、中学の非常勤講師なのです。しかも、国語の先生なのに、言葉がつっかえてうまく話せないという特徴を持っています。
この点について重松さんは、「文庫版あとがき」を「初めてヒーローの登場する物語を書きました」と書き出しながら、次のように述べています。

しゃべろうとすると言葉がつっかえてしまうひとを主人公に据えたお話しは、『きよしこ』につづいてこれが二作目である。なぜ繰り返し書くのかと問われれば、僕も吃音だから、としか答えられない。

話し言葉を流ちょうに操れないことは、少年時代においては、いじめやからかいの対象になったでしょうし、職業選択など人生の岐路に当たっていろいろと挫折もあったことでしょう。しかし、だからこそ言葉や意思伝達について深く考えられ、だからこそ、そんな先生にいて欲しい──本書には、重松さんのそんな思いがつまっているのではないでしょうか。実際、「あとがき」には、こんな文もあります。

じつを言うと吃音のコンプレックスに押しつぶされた格好で教師になることをあきらめた僕の、ありえたかもしれないもう一つの人生を、村内先生に託したかった。物語とは結局のところ、たった一つきりの(しかも後戻りできない)人生しか与えられていない書き手や読み手の、だからこその歓びと悲しみに支えられているのだと思うから。

ああ、確かにそうです。私もよく、物語のリアリティだとか、描写の巧拙だとか偉そうなことを書いていますが、結局のところ読み手としての私の人生を投影した読み方に過ぎません。その意味で、「吃音をかかえた先生」という設定は、かなり説得力があるなと思いました。

本書の中で村内先生は、意思疎通に必要な言葉が不自由だからこそ、真剣に子どもと向き合い、意志疎通を果たしています。子どもたちとの葛藤場面では、少ない言葉、あるいは搾り出すような言葉で子どもたちと向き合います。「もし自分が村内先生だったら」と考えると、きっと余計なことをしゃべってしまい、さらに傷つけてしまうのだろうなと思いました。
思春期の子どもと真剣に向き合ったことのある方ならお分かりの通り、悩んでいる子どもを目の前にして、言葉はいかにも空疎です。本書の物語のそれぞれが、そのことを実感させてくれました。

本書はおそらく一般的なカテゴリとしては、ティーン向けの小説ということになるのでしょうけれど、少なくとも私には親向け、先生向けの小説のように感じました。その意味で、この記事の最後に、もっとも印象的だった村内先生の言葉をご紹介します。私に足りないのは、こういう寄り添い方なんだよなあ、と実感しました。

嘘をつくのは、その子がひとりぼっちになりたくないからですよ。嘘をつかないとひとりぼっちになっちゃう子が、嘘をつくんです。

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