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2010年10月20日 (水)

授業公開の見学

Ekokuban

「3日間連続で、授業公開を実施します」

先日、都内の某中学校の先生から、学校公開のご連絡をいただきました。公開授業ではなく、授業公開、つまり、よそ行きの授業ではなく、普段通りの授業が見られるのです。さらに、この中学校には、今なにかと話題の電子黒板が数台導入されており、それを活用した授業も見られるとのことでした。

電子黒板を使った授業は、普段使いの様子にこそ、ソフトウエア開発のネタがあるはずです。「これは行かねばなるまい」ということで、行って参りました。

学校に入ってまず目に飛び込んできたのは、その充実した校内掲示。階段や廊下に、生徒のレポートや作品が多数張り出されています。中でも目を引いたのは、階段の踊り場に、生徒作品の生け花が飾られていたこと。階段で走り回ったり、ほうきを振り回したりする生徒の多い学校であれば、不可能な設置方法です。これだけでも、この中学校が学習に集中できる環境にあることや、そうなるように、先生方が日々努力されていることがうかがい知れました。

授業は社会科を中心に、英語、技術を見学しました。
参観者はさほど多くなかったこともあるのでしょうけれど、生徒たちは落ち着いた様子で授業を受けていました。おそらくこれが普段通りなのでしょう。机に「くた~っ」と伏している生徒も散見されたものの、ほとんどの生徒が授業に集中し、先生の質問に対して、ちゃんと意見が出ていました。
近頃の中学校では、お互いが牽制し合って、意見が発せられない教室が珍しくありません。その中で、どのクラスでも意見が出されるというのは、先生方のチームワークのたまものではないかと推察しました。だれか一人の先生が頑張っても、こうはなりませんから。

そして電子黒板の利用。社会科(歴史)の授業でじっくりと見学させていただきました。冒頭の写真は、その様子です。黒板と電子黒板のハイブリッド授業とでも申しましょうか、うまい役割分担がなされていました。
まず、歴史の重要単語は黒板に先生がチョークで記載します。電子黒板は、文字を書くには小さすぎるからでしょう。それと、生徒が板書をノートに書き写す作業とその時間を考えると、黒板という「枯れたデバイス」も捨てたものではないなと感じました。記憶する側である生徒の脳みそは、デジタル化できないのですから。
電子黒板は、資料提示とその解説に使われていました。資料は教科書をスキャニングしたもの。生徒にとっては、先生がどの資料のことを解説しているのか、一目でわかります。写真の中に重要な情報がある場合、先生は、画面の部分拡大機能とマーカーの機能を使って説明していました。いつのまにか、私も歴史の学習をしている気持ちになりました。
電子黒板で、革新的な授業が展開されると妄想していましたが、それは良い意味で裏切られました。道具がよい授業をするわけではないのです。授業の上手な先生が、便利な道具を使ったに過ぎません。

近頃は「デジタルで教育が変わる」とか、「教育改革を急がねば日本が滅びる」などと、極端な議論が繰り返されています。しかしおそらく、それは間違いです。教育は変わる必要などありません。まともになりさえすれば良いのです。
私は冒頭、この中学校の校内掲示や生け花に感動した話を書きました。「そんなの当たり前」と思った方も少なくないでしょう。けれど、世の中に当たり前のことができている、企業、役所、学校がどれほどあるでしょうか。「神は細部に宿る」と言いますが、こうした校内環境の整備ができていることは、間違いなく授業に生きていると思うのです。

見学させていただいた中学校では、確かに電子黒板が使われていました。使わせられていたのではなく、使っていたのです。おそらく、先生方同士で授業での使い方を話し合っているのではないでしょうか。そんな雰囲気が感じられました。
経済対策と称して、新しいデバイスを配る前に、配りさえすればいいと考える前に、こうした学校の雰囲気は何によってもたらされるのか──教育行政に関わる方には、ぜひその点をお考えいただきたいと思いました。

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コメント

こんにちは。
なるほど、です。ここでおっしゃられていることは、私も、すべて共感できるところです。
新しいもの(価値観、手立て等)が導入されると、それまでの確実な成果までもご破算にしかねないような過激なプロモーションがされてしまう傾向があるのでしょうが、これは、特に教育にあっては実際相当危ないことだと思います。
ただ、私が、でも、どうしても教育にある種の変革が必要だと思うのは、日本の教育は、「自分の足で立とうとする」というか、「自分の考えを育てる」というか、そういう人間を本気で育てようとしていない現実をやはり悲観せざるをえないから、です。
むずかしいです。

投稿: 時折 | 2010年10月21日 (木) 12時30分

時折さん、コメントありがとうございました。
確かにそうした懸念はありますね。けれども、最近私が疑問に思うのは、「自分の考えを持つ」ことは、果たして教えられることなのだろうか、ということです。時折さんのブログに書かせていただいた「メソッドへの疑念」もそういう文脈から派生しています。
自ら立つ人間を育てるには、山本周五郎の「内蔵助留守」(表記が違う?)にあったような師弟関係しかないような気もします。あ、結局は現状の教育批判になってしまいますかね、これって。

投稿: むらちゃん | 2010年10月21日 (木) 13時34分


やはり表記が間違ってました。正しくは
 内蔵允留守(くらのすけ るす)
です。失礼しました。

投稿: むらちゃん | 2010年10月21日 (木) 23時52分

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