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2010年10月22日 (金)

真鶴

「真鶴」川上弘美:著(文春文庫)

川上さんは、ずっと気になる作家でしたが、これまでなかなか読む機会がありませんでした。「読もうかな」と思っても、さてどの1冊にしようかと考えると、結構迷ってしまい、結局読めない、という状態が続いていたのです。

そんなとき、私が定期閲覧させていただいている読書ブログに、本書が紹介されていました。「よく分からない作品」として。膨大な読書量と質の高いブログをなさっている方が「よく分からない」と評する小説──これは読まないわけには参りません。

12年前に夫の礼(れい)は失踪した、「真鶴」という言葉を日記に残して。京(けい)は、母親、一人娘の百(もも)と三人で暮らしを営む。不在の夫に思いをはせつつ新しい恋人と逢瀬を重ねている京は何かに惹かれるように、東京と真鶴の間を往還するのだった。京についてくる目に見えない女は何を伝えようとしているのか。遙かな視線の物語。 解説・三浦雅士

この表4記載のあらすじを読む限り、なんだかミステリー、あるいはホラーっぽいお話しを想像します。もしかすると、そう読むことも可能なのかもしれません。けれども少なくとも私には、「失踪」という形で夫を失った女性の葛藤と再生の物語に読めました。そしてもし、本書の感想を一言で言うとしたなら、「描写のすごい本」とでも言えるでしょうか。決して「面白い」わけではないのですが、なんだか気圧されて読むのが止められない、そんな本でした。

まず大きな特徴として挙げられるのが、一文の短さです。その短さが、独特な世界を描き出します。たとえば真鶴の海岸に出かけた京が、「目に見えない女」とやりとりする場面。

雷がなりひびく。いなびかりが強い。波がよせ、砂をさらってゆく。その子って、あなたなの。女に聞く。ちがう。女が答える。ほんとに、ちがうの。また聞く。わからない、もうわすれた。女が答える。雷鳴がとどろく。高くなった波を、岩はさえぎることができない。

この「女」は、物語中頻繁に登場し、京を悩ませます。亡霊のようでもあり、京自身の投影のようでもあり、よくわからない存在です。雷が近づく海岸で、幻とやりとりする京。こうした極端に短い一文のおかげで、そうした不思議な空間が描かれているように感じました。

次に皮膚感覚に訴えるような表現です。たとえば、娘の百(もも)との関係の描写。百が長じ、京との関係が微妙になってから抱いた感慨が次のように描かれています。

百が生まれたばかりのころ、乳を吸われながら、近い、と思った。この子となんと近くにあるのだろう。腹の中に宿していたときよりも、なお近いように思った。可愛いだのいとおしいだの、そんなものではなかった。ただ、近かった。

むろん男である私は、子どもに乳を吸われたことはありません。にもかかわらず、なんとなく共感してしまう表現です。同時に、このぞんざいな表現によって、子どもに相対する親の気持ちが、必ずしも「かわいい」ばかりではなかったという、黒い部分もえぐり出しています。私もはっとさせられました。この物語の重要なポイントである、娘の百の成長の記憶は、血というか宿業というか、どろどろした感じで一貫しています。

それから、夫と愛し合った記憶や、恋人とのやりとり、とりわけ性的なやりとりの描写が、なんとも生々しく、読み手に迫ります。恐怖を与えていると言ってもよいかもしれません。たとえば、京が、妻子ある恋人との情交後、ホテルを出てレストランに入るときの場面。

ふかく、したけれど、足りなかった。それでもからだは疲れた。神妙なおももちで、手をつないだままホテルを出た。(中略)店に入って注文するあいだも、からだはまだ荒々しさを遺していた。最初に鉱泉水をたっぷりとついでもらい、喉を鳴らして飲んだ。からだの中に水の通りみちができて、少し楽になった。

情事の後の余韻というのは、男性にとっては実感がありません。なのに、こうした表現にリアリティを感じます。皮膚感覚に訴える表現が多いせいでしょうか──分かりません。
極端に短い一文、生々しい表現、正体不明な亡霊の存在。こうした特徴を持つ本書は、決して読みやすい小説ではありません。けれども読み手の心臓を触ってくるような、あるいは目の前に生肉をぶらさげるような、そうした迫力があるように感じました。

結局本書は、私にとっても分からない小説ではありました。けれども読後感は決して不快ではありません。快でもなかったですがcoldsweats01。実に変わった経験をさせてもらった本でした。

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真鶴著者:川上 弘美販売元:文藝春秋発売日:2006-10おすすめ度:クチコミを見る “ついてくるもの”がちとあやしい。 内容(「MARC」データベースより) 失踪した夫を思いつつ、恋人の青茲と付き合う京は、夫、礼の日記に、「真鶴」という文字を見つける。“ついてくるもの...... [続きを読む]

受信: 2010年10月23日 (土) 08時06分

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