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2010年12月24日 (金)

シュガータイム

「シュガータイム」小川洋子:著(中央公論社)

学生時代の思い出はどのように記憶されていますか。うれしかった、腹立たしかった、悲しかった、楽しかった、様々な思い出はあるものの、総じて美しいものとして記憶されている方が多いのではないでしょうか。かく言う私もそうです。これは、私たちの脳にそうした働きがあるから、という説もあるようですが、本当のところはよく分かりません。

こんなことを考えたのは、本書を読んだから。主人公の行動や心情を追ううちに、いつの間にか自分の学生時代はどんな時間だったろうかと考えていました。

本来ストーリーを楽しむはずの小説なのに、読みながらこんなことを考えたのは、本作の展開に理由があります。「事件」が起こらないのです。

三週間ほど前から、わたしは奇妙な日記をつけ始めた。わたしはいつもそれを、夜、ベッドの中で書いた。眠りに落ちる直前まで待たないと、自分が何かを食べてしまうか分からなかったからだ。このくらいで食べるのはやめて、日記を書いてから眠ろうとふんぎりをつけるには、かなりのエネルギーを必要とした。

本作はこのような書き出しで始まっています。過食症と思われる女子大生が、その異常な食欲に悩ませられながらも、家族や友だち、アルバイト先、恋人と関わって行く中で、やがて卒業を迎える、というストーリーです。けれどもそれぞれとの関わりにおいて、たいていの小説に見られる「事件」というか「変化」がありません。話のキーとなりそうな、過食症については症状に大きな変化はありませんし、家族関係も友だち関係も顕著には変わりません。恋人との関係は多少変わりますが、この話題が中心というわけでもありません。要するにストーリーとしては淡々と進むのです。

この記事の冒頭に紹介している書影は文庫本ですが、私自身は、約20年前に購入した単行本を読みました。小川さんが芥川賞を取った直後に出た長編ということで、すぐに購入した記憶があります。けれども当時は、冒頭の十数ページを読んだだけで投げ出してしまいました。当時は描写よりも筋に関心があったため、どうにもついて行けなかったのです。当時はまだ若すぎて、自分の学生時代を客体化できなかったため、退屈に感じたのかも知れません。
今回改めて読んでみて、その細やかな描写に惹かれました。「この情景描写に、そういう言葉を選びますか。すごいなあ」とか、「その心理描写のために、その事物を描きますか!」という感動がいくつもあったのです。そしてそうした思いを繰り返すうちに、いつしか学生時代の気分に戻っている自分に気づきました。
たとえば、音信不通になってしまった恋人の「吉田さん」から手紙を受け取る場面。

しばらくして、信じられないことに吉田さんから手紙が届いた。飾り気のない白い封筒が、ポストの底にひっそりと横たわっていた。わたしには最初、そのことが何を意味するのかよく分からなかった。あまりにも長い時間、吉田さんを待ちすぎ、頭のどこかが麻痺していたのだ。(中略)なぜかすぐには封を切る気分になれず、しばらく掌にのせて重さや肌触りや切手の模様を確かめていた。外側から見るかぎりごくありふれた手紙だった。どこにでも売っている縦書きの細長い封筒で、真ん中にわたしの名前が大きく書かれていた。丁寧でよそよそしい字だった。

嬉しいとか、悲しいとか、感情を表す形容詞を一切使っていないのに、確実に気持が想像できる描写です。その上文末のほとんどが「た」もしくは「だ」になっていることで、非常に淡々とした感じが出ています。

学生時代など、過去の思い出について、私たちは漠然と「楽しかったな」なんて思い込んでいるけれど、案外そうでもなかったのではないかと言われたような気がしました。実際には当時、案外淡々とした時間が流れていて、結構悲しい思いやつらい仕打ちに遭っていたのではないかと。逆に言えば、今が大変なあなたも、そうでもないと感じられる未来が来るよ、ということなのかもしれません。
いろんなことを考えさせてもらった一冊でした。

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