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2010年12月31日 (金)

偽りのマリリン・モンロー

「偽りのマリリン・モンロー」松本侑子:著(集英社)

本書は約20年前に購入した本です。当時、やはり松本さんの作品である「巨食症の明けない夜明け」を読んで強いインパクトを受けました。過食と嘔吐を繰り返す主人公の不安と孤独に、リアリティを感じた記憶があります。それと「巨食症」という造語センスにも惹かれました。

この印象が強烈だったことから、続いて出版された本書に興味を持ちました。帯には「気鋭のスリリングな野心作」とあります。主人公は女性フォトグラファー。本書は、こんな書き出しで始まります。

一週間ばかり夏の休暇をとった私は、アメリカの田舎町に渡り、学生時代の知人エリックと、彼の若き叔母であり、マリリン・モンローのそっくりさん女優でもあるジェーン・ハインと過ごした。
この物語は、短い夏休みと、その後に起きた事件についてのものである。

この書き出しの後、主人公の「私」は、エリックの運転する冷房のないオープンカーで、アメリカの田舎町にあるジェーンの家へ向かいます。途中描かれる、真夏のアメリカ大陸の乾いた暑さとほこりっぽさ、車中のラジオから流れるカントリーウエスタンなどの「舞台背景」によって、その「ドライブ」が、必ずしも楽しいものではないことが伝わってきます。なかなか、うまい書き出しだと思いました。

ジェーンを撮影することになったのは、学生時代に知り合った、エリックからジェーンの写真を見せてもらったことがきっかけです。それを見た時の「私」の感想や感情が、かなり詳細に語られ、その叙述の中から本書のテーマ的なものが見えてきます。

もちろん私は、彼女の愛嬌のある美しさや性的魅力を認めるにやぶさかではない。だが、不自然に勿体付けた彼女の仕草や、子供じみていて甘ったるい声は、変に私を落ち着かなくさせる。男の気を引くために乳房や腰を強調し、一方で男を安心させるために幼さと愚かさを装う彼女の姿に、私は苛々する。
それはモンローに対してのみならず、本質的には彼女とそう違わない仕草の女たちへの反発であり、屈辱感だった。それは取りも直さず、自己嫌悪の裏返しだった。私自身も、時として取り敢えず可愛らしい女らしさを演出して穏便に事を運び、その実、私も相手も、お互いを適当にあしらっていることを思い出させた。

特にフェミニズム運動家でなくても、自らの女性性を武器にする女性や、そうした女性に魅力を感じる男性を嫌悪する女性は少なくないでしょう。松本さんは、そうした感情が自己嫌悪の裏返しだと言います。女性性を中心とした、他者憎悪と自己嫌悪。この古くて新しいテーマを描くのに、マリリン・モンローにそっくりなジェーンと女性フォトグラファーというのは、なかなか見事な設定だと思いました。
マリリン・モンロー自体が女性性を武器にした女性の象徴的存在ですから、それを見た目どころか、声や考え方、食べ物の嗜好や部屋のレイアウトまで完璧にまねているジェーンは、その象徴性を純化しているとも言えます。しかも彼女を観察するのは、フォトグラファーである「私」。仕事に行き詰まりを感じ、悩んでいます。

ところが、これだけ役者のそろった物語でしたが、どうにも楽しめませんでした。詳しく書いて欲しいところがさらりと記述され、あまり重要でないと思われる部分が描き込まれているように感じてしまうのです。読み進めるうちに、違和感がどんどん大きくなってしまいました。何より、「私」も「ジェーン」も「エリック」も、存在感が感じられず、迫ってこないのです。いったい作者は、この物語で何を言いたかったのかなあと考えてしまいました。
読みながら「作者の言いたかったこと」に思いを馳せるということは、つまり共感できなかったと言うことでしょう。通常は、読者を物語に没入させてくれますから、そんなことが気になるはずがありません。これは、私の読解力に問題があるのか、それとも作者との相性が原因なのかわかりませんが、なんだか、とても残念でした。

物語を読むと言うことは、いったい読者にとってどんなことなのか、改めて考えさせられた一冊でした。

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